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みかの/いつ 中納言兼輔

1 通釈

みかの原わきて流るいづみ川 いつ見きとてか恋しかるらむ

→みかの原を分けて湧き出て流れる泉川の泉ではないのですが、いつ逢ったというのでしょう?こんなに恋しくおもう気持ちがあふれてくるなんて。(お会いしたことがないのに)

2 どうやら兼輔のうたではないらしい?

このうたは、藤原兼輔(ふじわらのかねすけ)のものとされて「新古今集」に入れられてしまったようなのです。「古今六帖」に3首ならんでいたうちの、最初のうただけが兼輔のもので、そのあとの2首は詠み人知らずだったらしいのです。その詠み人知らずを採用してしまった、というのが通説になっています。

さて、うたに戻りますが、このうたは恋のうたです。

平安時代の恋のはじまりは、まず、会ったことがない、というのが普通でした。

顔も見たことがない、声も聞いたことがない、その人のうわさだけが先に耳に入るのです。

そのうわさでイメージを膨らませるので、ものすごくディフォルメされていくのです。そのイメージがどれだけ実物と近いか、当たりだったりはずれだったり。

「かぐや姫」なんか、まさにこのイメージ先行です。

そして、この、「みかのはら」「いづみ川」「いつみきとてか」のリズム感。

まるでラップのようですよね。

詠み人知らずでも、覚えやすいので、自然に広まったのではないでしょうか。

3 三字決まり みかの/いつ

「み」から始まるうたで、「みか」はこのうたと、49番の「みかき」のうたです。こちらは「みかの」なので三字決まりになります。

4 覚え方

みかのつみき

小倉山/今 貞信公

1 通釈

小倉山峰のもみぢ葉心あらば 今一度の行幸待たなむ

→小倉山の峰のもみじよ、もしもお前に物の趣を理解する心があるのなら、もう一度の行幸があるまで(散らずに)待っていてほしい。

2 定家も見ていた紅葉の美しさ

作者の貞信公(ていしんこう)←しごうと呼ばれる死後の名前。本名藤原忠平(ふじわらのただひら)は880年生まれで949年に69歳で亡くなりました。

父が藤原基経(ふじわらのもとつね 初代関白)で兄、藤原時平、仲平と三人で三平と呼ばれていました。

日記「貞信公記」は貴族の生活を記録した、貴重な資料になっています。

宇多天皇が息子の醍醐天皇に譲位して法皇になったときに、小倉山の紅葉にとても感動して、

「この景色のすばらしさを、現天皇(醍醐天皇)にもお見せしてさしあげたい!」

と、忠平が申しあげ、そのついでにこのうたを詠んだとされています。

このことがあった翌日に、醍醐天皇の行幸が早速行われたそうです。

行幸(みゆき)とは、天皇が外出することを言います。

紅葉の時期になりました。わたしの住んでいるところでも、高い山の峰のほうから赤や黄色の木々が目立つようになってきました。

紅葉は日中と夜間の気温差が大きくなるとどんどん進んでいきます。

平安の人々も、景色の移り変わりを今の私たち以上に敏感に感じ取っていました。

同じ景色を見せてあげたい!となったら、一刻も早くという気持ちだったのでしょう。

百人一首の編さんに関わった定家も、小倉山の近くに住んでいたので、同じ景色に賛同していたことでしょう。

3 二字決まり おぐら/いま

「お」から始まるうたで、「おぐ」はこのうただけです。

4 覚え方

おぐらのみゆき

名にし/人に 三条右大臣

1 通釈

名にし負はば逢坂山のさねかづら 人に知られでくるよしもがな

→逢坂山のさねかずらよ、その名前を持っているならば人に知られないであなたのもとにやってくる手立てがほしいものです。

2 ひ孫の嫁は紫式部

作者の三条右大臣(さんじょうのうだいじん)は本名、藤原定方(ふじわらのさだかた)、873年に生まれ932年に59歳で亡くなりました。

屋敷が三条にあったことから、三条右大臣と呼ばれていました。

定方は会ったことがないと判断できますが、紫式部が後々親族になるという家系になっています。(ひ孫の宣孝が紫式部の夫)

さねかづらは、モクレン科のつる性の低木で、庭木や生垣に利用されています。

きれいな赤い実をつけます。この実は薬効成分を含んでいて咳止めになるそうです。茎の粘液が製紙、びん付け油(男性の整髪料)の原料になるそうです。

そういったことから、”美男かづら”とも言われるそうです。

春夏まっすぐのびていたツルが、秋になると絡み合うという生態から、男女の絡みに例えられるようです。

このさねかづらにうたを結んで愛しい人に届けたのでしょう。

もらった女性はドキドキしてワクワクして逢いに来てくれるのを待っていたことでしょう。

奥様になった方であったかどうかはわかりませんが、この時代は婚姻届がちゃんと制定されておりませんので、想像の人物、ということにしたいと思います。

3 三字決まり なにし/ひとに

「な」から始まるうたで、「なに」までは3首ありますが、「なにし」はこのうただけです。

4 覚え方

なにしに くるよ

このたび/紅葉 菅家

1 通釈

このたびは幣もとりあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに

→今度の旅はあわただしい旅のため、道祖神(どうそじん)におささげする物も用意できませんでした。そこでとりあえずですがこの手向山(たむけやま)の錦織のような紅葉をお供えいたします。どうぞ受け取ってください

2 日本三大怨霊の一人?

作者の菅原道真(すがわらのみちざね 敬意をこめて菅家とよばれる)は845年生まれで903年に58歳で亡くなりました。彼の人生は、一人の左大臣にねたまれたことから一気に転落、果ては日本三大怨霊にまで数えられるほどになってしまいました。

頭も良くて政治家としても有能で、そんな彼を世間が見逃すわけありません。

右大臣にまで上り詰め、宇多天皇と醍醐天皇親子二人に目をかけてもらえるようになりました。

こうなると、左大臣は何をやってるの?状態になってきます。

その左大臣というのが、藤原時平(ふじわらのときひら)だったと言われています。

藤原一族と言えば、政治の裏舞台での活躍は言わずと知れておりますが、(時平の父が関白政治をしてきたり、とにかくすごい)その藤原氏よりも目立ってしまった道真公。

「道真は娘婿を次の天皇にしようと企んでいるらしいですよ」

と、時平は醍醐天皇に嘘をついてしまうんですね。

どんなふうに伝わったのか、醍醐天皇はそれを鵜呑みにして道真公を太宰府に左遷してしまうのです。

失意のうちに道真公は亡くなり、家族も不遇な目にあってしまいます。

その後、宮殿には道真公の怨霊があらわれるといううわさも出始め、雷が落ちてたくさんの人が亡くなったり都中に良くないことが起き始めました。

そんなことから、道真公の魂を鎮めるために天満宮を建立したりと、努力をすることになってしまいます。太宰府天満宮http://dazaifutenmangu.or.jpこちらに詳しく記述されていますので、リンクしておきます。

三大怨霊と書きましたが、ほかの二人は、崇徳院(すとくいん)と平将門(たいらのまさかど)と言われています。彼らのことはまた別の機会に。

さて、うたの内容にもどりますが、このうたは、宇多天皇のお供をするときに詠んだとされています。

このうたが詠まれたころは何事もうまくいっていたころのことでしょう。

地元の天神様にも、こんな出来事があったということを思えば、切なくなってしまいます。

3 二字決まり この/もみじ

「こ」から始まるうたで、「この」はこのうただけです。

このもみじ、で覚えましょう。

月見れば/わが身 大江千里

1 通釈

月見ればちぢに物こそ悲しけれ わが身一つの秋にはあらねど

→月を見るといつも、さまざまに物のすべてが悲しくなることだ。秋はわたし一人のところにやってくるわけではないのに。

2 翻訳が歌のはじまり

作者の大江千里(おおえのちさと)は生没年がはっきりわかっていません。

父が在原業平(ありわらのなりひら)、在原行平(ありわらのゆきひら)の甥(おい)にあたります。

漢学者として中国の文学者である白居易(はくきょい)の書いた「白氏文集」を翻訳して、宇多天皇にお仕えしました。

その中で使われたとされるのがこの一文です。

満窓名月満簾霜(満窓の名月満簾の霜)

被冷灯残払臥床(ひややかにして灯残して臥床を払う)

燕子楼中霜月夜(燕子楼中霜月の夜)

秋来只為一人長(秋来たって只一人の為に長し)

→窓のあたりに満ちた名月の光に、御簾に咲く霜の花がきらめいて

 夜具は寒々として灯火も燃え尽きて、月の光は独り寝の床を払うように差し込みます。

 霜の降りるこの夜に燕子楼に独りわびしく起きていると、

 秋が訪れてからというものは、眠れない夜はまるで私一人をさいなむかのようです。

平安時代は中国がお手本になっていましたので、こういった素晴らしい文章を翻訳してわかりやすくするという仕事が重宝されていました。

大江千里もたくさん翻訳をして天皇のお役にたっていたのですね。

3 二字決まり つき/わがみ

「つ」から始まるうたで、「月」はこのうただけです。覚えてしまいましょう!

4 覚え方

わがみひとつのつき