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そのほかのうた

誰をかも/松も 藤原興風

1 通釈

誰をかも知る人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに

→誰を友にしたらよいのでしょう。高砂の松でさえ昔からの友人ということではないのです。

2 琴の使い手だった

作者の藤原興風(ふじわらのおきかぜ)は生没年がはっきりわかっていません。

9世紀末~10世紀に活躍した三十六歌仙の一人です。

紀貫之(きのつらゆき)と並ぶ『古今集』の歌人です。

興風は管弦、とくに琴の名手であったそうで、私のイメージとしてはシンガーソングライター。歌も歌えば、音楽も作る、感受性の優れた人だったんですね。

このうたは、年をとっていく孤独感の強調された歌だといわれています。

松と言えば、高砂の松のことを思い出します。みなさんも見たことがあるかもしれません。長寿と夫婦愛を表現した絵で、老夫婦が仲良さそうに並んでいる、その後ろに松が生えている、あの絵です。

これをイメージした後にこのうたを詠んでみると、なんとも一人で生きながらえている自分のみじめさや、寂しさがじわじわ来ます。

きっと、定家もこの気持ちに共感していたのではないでしょうか。

3 二字決まり

「た」から始まるうたで、「誰」はこのうただけです。

4 覚え方

まつもとは だれ?

天つ風/をとめの 僧正遍昭

1 通釈 

天つ風雲の通ひ路吹き閉ちよ をとめの姿しばしとどめむ

→空を吹く風よ 雲の切れ目にあるという天と地をむすぶ天女が通る道を吹きとじておくれ 五節の舞姫たちの姿をもうすこしこの場にとどめておきたいのだ

2 人生は仁明天皇とともに

作者の僧正遍昭(そうじょうへんじょう)は出家前の名前を良岑宗貞(よしみねのむねさだ)といいます。816年生まれで890年に74歳で亡くなっています。

桓武天皇の孫になります。桓武天皇は平城京から長岡京、平安京に都を遷都、つまり大規模に都市の引っ越しを実行した天皇なので、時代としては落ち着かない時代だったと思われます。

現代にあてはめると、政治の中心地まるごと地方にお引越しですから、それは大胆でおおがかりな改革だったことでしょう。

そんな時代に生まれた宗貞は仁明天皇(桓武天皇より4代後の天皇)に認められて出世していきます。

認められて仕事にやりがいも出てきたところで、仁明天皇がお亡くなりになってしまいます。

上司が代われば、対応も変わります。宗貞はついに出家して僧正遍昭となるのです。

うたのなかにある、をとめは乙女。五節の舞姫を指しています。天武天皇(桓武天皇より10代前の天皇)が吉野宮で琴を演奏していた時に、天女が舞いおりて天皇の琴にあわせて5回袖をひるがえして舞ったという故事からきています。

五節の舞は毎年11月の丑の日から辰の日にかけて行われる宮中の儀式、新嘗祭(にいなめさい)で奉納される舞のことです。

かわいらしい天女のような少女たちが可憐に舞う姿をほほえましく見ていた遍昭は、いつまでもこの時間が続くことを望んでいたのでしょう。

僧正遍昭は六歌仙、三十六歌仙の一人です。

3 三字決まり 天つ/をとめ

「あ」で始まるうたで、「天」から始まるうたはこのうたと、7番目のうた「天の原~」https://hyakuninnouta.com/2020/08/31/%e5%a4%a9%e3%81%ae%e5%8e%9f-%e4%b8%89%e7%ac%a0%e3%80%80%e5%ae%89%e5%80%8d%e4%bb%b2%e9%ba%bf/だけです。取り札を並べるときに、自分のほうに二枚ともある時はチャンス!近くに並べて二枚とも払って取りましょう。

4 覚え方

あまつ おとめ

これやこの/知るも知らぬも 蝉丸

1 通釈

これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関

→なるほどこれが東国へ旅立っていく人も、それを見送って京へ帰る人も、ここで別れては、また顔見知りの人もそうでない人も、会っては別れ、別れては会うという逢坂の関なのだなあ。

2 初代 琵琶法師

蝉丸(せみまる・せみまろ)は生没年不詳の盲目の僧で琵琶の名手と言われています。逢坂の関のそばに住んでいて、このうたを詠んだことになっています。

現在の場所とされる住所は、滋賀県大津市逢坂。蝉丸神社という神社がそばにあります。神社の鳥居がある場所は石段の階段を上ったところで、本当に峠のようなところです。

こんな山の中にお坊さんだからあえてそこに住んだのか、今では想像できない場所です。

琵琶法師の祖とも言われているようで、かるたの読み札には琵琶を持った絵も見られます。

琵琶法師というと、平家物語の「祇園精舎の鐘~」のイメージがあります。

それと耳なし芳一のお話。平家物語で亡霊に耳を取られたというあの、怪談。

なんだかちょっと怖いイメージがあります。

この逢坂の関で人の行き来する流れを見ていると、関が現在、そこを過ぎると見えてくるのが未来、振り返ってみて見えているのが過去という図式が浮かびます。

人は誰でも幸せを求めて生きていると思います。つらかった過去を捨てて、幸せな未来を手に入れる峠が逢坂の関、なのではないのでしょうか。

3 二字決まり これ/知る

「こ」から始まるうたで、「これ」はこのうただけです。

4 覚え方

これ知る。

これ知る?知らぬ。

そのまんまで覚えやすいですね。

我が庵は/世を 喜撰法師

1 通釈

我が庵は都の辰巳しかぞ住む 世をうぢ山と人はいふなり

→私の草庵は都の辰巳(東南)の方角の鹿が住むようなところにありますが、このように心おだやかに住んでおります。それなのに世の中のみなさんは都を住みづらくなって山(宇治山)に逃げこんだのだろうと言っておられる。

2 仙人になった法師

喜撰法師(きせんほうし)は生没年不詳の人物で、紀氏(きのし)出身の仙人ということで喜撰法師と言われているようです。

紀氏とは、紀伊国(和歌山県あたり)を支配していた豪族の流れの一族です。

喜撰法師は平安時代の嵯峨天皇(さがてんのう)第52代天皇の時代に活躍しました。このころ天候不順で農業は不況、農民は苦しい生活を強いられておりました。のんびりまったり都で生活するのは難しくなっていたわけです。

出家して(俗世間を離れて頭をまるめて)醍醐山(だいごやま)あたりに隠居生活をして仙人になって最後は雲に乗っていなくなってしまったというおとぎ話のような伝説の人物です。

この歌は言葉遊びのような掛詞(かけことば)を使っています。

「しかぞ住む」のしか→動物の鹿と然るべき(このようにという意味あい)のしか

「うぢ山」のうぢ→宇治と憂し(つらいという意味)

テクニックがあるというか、ひとつの言葉にいろいろな思いを託しているというか、ひねりがあるというんでしょうかね。こんな歌のおかげか、本当は紀貫之(きのつらゆき)が喜撰法師なんじゃないか?なんてうわさもあります。

とはいえ、裕福な生活を自ら離れて法師になるということは、それ相応の決意があったのではないでしょうか。

欲から離れることで自分の存在からも離れる、ついには消えてなくなる。すごい生き方だと思います。

3 三字決まり 我が庵/世を

「わが」で始まるうたで、ほかに92番のうた「わが袖」があります。「わがい」「わがそ」三文字まで聞いてから。

4 覚え方

わがいとしのうじやまさん

百人一首のなりたちとは

1 誰が作ったのか

藤原定家(ふじわらのさだいえ) 1162年生まれ。1241年(79歳)没。 が、74歳の時、宇都宮頼綱(うつのみやよりつな)に依頼されて選定作業に入りました。

定家と頼綱は同じ一族であり、頼綱の別荘のふすまに貼る色紙を作るように依頼されたわけです。

色紙とは有名人のサインなどを記す、あの紙のことです。

定家は、それまでに天皇の命をうけて和歌集を作っていたので、頼綱もたのもしく思っていたにちがいありません。

頼綱は10歳年下でしたが、宇都宮歌壇といわれる和歌を詠む会の代表でした。

そういった環境のなかで、定家は『百人秀歌』をベースにしておよそ百首選んでいきました。

2 百人秀歌(ひゃくにんしゅうか)とは

藤原定家が選定した101人101首の和歌集。『二四代集(にしだいしゅう)』からひとり一首を選んだものです。

この百人秀歌が百人一首と重複する歌が多いことから、百人一首のベースとなったのではと言われています。

百人一首との違いとは

作られた時代背景がかなり影響していると思われる、百人一首には外された3首をあげておきます。

一条皇后の歌

  よもすがら 契りしことを忘れずは こひん涙の色ぞゆかしき

権中納言国信の歌

  春日野の 下萌えわたる草の上に つれなく見ゆる春の淡雪

権中納言長方の歌

  紀の国の 由良の岬に拾ふてふ たまさかにだに逢ひ見てしがな

自分のお仕えする上司が代われば、それにともなって歌の選定も変わる。

今も昔も心遣いは日本人ならではな感じですね。

まとめ

以上の過程を経て、百人一首は選定されました。選ばれた歌は、古いものから新しいものまでおよそ600年の時間差があります。

こういったことから、定家ひとりが選定したわけではないことが想像できます。

おそらく、定家の意思を受け継いだ人たちがながい時間をかけて選んで作っていったのだと思います。

参考文献・資料 三省堂 新明解古典シリーズ 百人一首

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